野里町歩紀

月1回のペースで大阪近郊の「野」「里」「町」を歩きます。そして合間にちょっと気になったことや世情について思いつくままつぶやきます。ただ論争は好みません。

旧大和川歩紀1~「長瀬川」に沿って~

訪問日:令和7年9月23日(火・祝)
出 発:近鉄電車「柏原南口駅
到 着:JR「放出駅」

 大阪第二の大河である「大和川」。奈良県の山奥を源流とし、現在は生駒山地金剛山地の間から大阪平野に出て、真っ直ぐ西に流れ大阪湾に注いでいます。しかし、江戸時代に付け替えられる前の「旧大和川」は幾筋にも分かれて大阪平野を北に流れていました。今回から2回に分け、旧大和川に沿って歩こうと思います。市街地を歩くので給水・トイレには困りません。

 

 今回、旧大和川を歩こうと思った理由についてお話しします。私は小学校で勤務しているのですが、大阪の小学校では社会科の授業で「わたしたちの大阪」という副教材を使い、大阪府の歴史や文化・地理・産業などを学びます。そんな中に「大和川のつけかえ」という単元があり、私の「歩紀」のテーマになりそうだったからです。

 

 沖積平野である大阪市内には「上町台地」という小高い丘があり、難波宮住吉大社四天王寺大阪城など大阪の歴史的遺産はこの上町台地に集中しています。なぜならば上町台地はかつて大阪湾に突き出た「半島」であり、周りは海だったのです。

(出典:「わたしたちの大阪(4年)」、日本文教出版株式会社)

 

 上町台地の東側に広がる「河内湾」は、大和川の堆積物により埋め立てられるとともに淡水化され「河内湖」となり、さらに北からは淀川・寝屋川が流れ込んでいたことから「深野池(ふこのいけ)」「新開池(しんがいけ)」という大きな池を残し「河内平野」となります。その中を幾筋にも分かれた旧大和川が二つの池に流れ込んでいたのです。そんな河内平野で人々は生活を営み始めたのですが、河内平野は水はけが悪く、旧大和川は田畑より川底が高い「天井川」となっていたため、人々は幾度となく水害に苦しめらました。そのような中、河内国河内郡今米(いまごめ)村の庄屋「中甚兵衛(なかじんべえ)」という人物が、幕府に働きかけるとともに自ら陣頭指揮を執り、今の大和川へと付け替え、河内平野を水害から守った。というのが「大和川のつけかえ」という話です(諸説あり)。「久宝寺川」が今日歩く「長瀬川」です。

(出典:「わたしたちの大阪(4年)」、日本文教出版株式会社)

 

 JR大阪駅から大和路線の「柏原駅」へ。ここで近鉄道明寺線に乗り換えます。同一構内にホームがあり、右が近鉄、左がJR。以前、JRから信楽高原鐡道に乗り換えた時のように、ホームにあるタッチパネルに交通系ICカードをタッチして出・入場記録を打刻します。

 

 今日のスタートは近鉄道明寺線柏原南口駅」。柏原駅で乗り換え、ひとつ目の駅です。大阪駅から約50分(590円)で着きました。駅のホームから大阪湾に向かって西へ真っ直ぐ流れる大和川が見えます。

 

 午前9時。タッチパネル改札の無人駅を出発。先ほどの大和川は、このホームの先っちょから眺めました。ここは大阪府柏原(かしわら)市。

 

 駅の階段を下りてすぐ左へ。そこには「三番樋」。「雨樋(あまどい)」という言葉がありますが、ここでは「樋(ひ)」という河川から取水する土木施設のことを言います。

 

 大和川付け替えの翌年である宝永2(1705)年に設けられ、現在もここから大和川の水が流れ込んでいます。

 

 堤防に沿って歩くと右に「妙見宮跡」という碑がありました。髭文字で「南無妙法蓮華経」と刻まれています。

 

 その先の左には虫籠窓のある立派な旧家が。

 

 お屋敷の前には「上市延命地蔵尊」。地蔵菩薩とは釈尊入滅後、弥勒菩薩が成仏する56億7000万年後まで人々を救済することを委ねられた仏様だそうです。民間信仰では道祖神と習合し、道行く人々を守ってくださる仏様です。近くに神社はないようなのでお地蔵様に今日一日の安全を祈願しましょう。

 

 さらに進めば左の「築留土地改良区事務所」前にこんな看板が。今回と次回に分けて歩く旧大和川(長瀬川と玉串川)は、平成30(2018)年8月、「世界かんがい施設遺産」に登録されているのですね。

 

 土地改良区事務所のすぐ横には「築留二番樋」。明治21(1888)年、煉瓦積みに改修されました。国の登録有形文化財に登録されています。

 

 堤防に上がってみましょう。そこは「大和川治水記念公園」になっており「大和川付替250年記念碑」が立っていました。

 

 その横に立つ銅像大和川の付け替えに尽力した「中甚兵衛像」です。中甚兵衛は、ここから直線距離で10kmほど北にある河内国今米村の庄屋に生まれましたが、第2回目の歩紀で「今米」を訪れます。

 

 他にもいろいろな顕彰碑が並んでいます。ここは大和川の水を堰き止めるために作られたため、「築留(つきどめ)」と呼ばれるそうです。

 

 公園前の「安堂交差点」を渡って堤防に下りると、新しい大和川の水が二番樋に引き込まれる様子がよくわかります。まだ重機もない時代に人の手と鋤や鍬などの道具だけで工事を行い、15kmほどの新大和川を約8カ月で完成させました。すごいですね。

 

 先ほどの二番樋前まで戻りましょう。ここから旧大和川である長瀬川の流れが始まりまるのです。300年以上の年月を経ていますが、長瀬川は今でもここから第二寝屋川と合流する河口部分まで14kmほど流れており、鉄道や幹線道で分断される3カ所を除いてずっと川に沿って遊歩道があります。さあ。旧大和川沿い歩紀の出発です。(午前9時22分)

 

 カラー歩道を進めばすぐ左に先ほどの二番樋が見えました。大和川の水が流れ込んできます。三番樋とともに宝永2(1705)年に作られました。一番樋は廃止されたそうです。

 

 右岸を進みます。

 

 突き当たりの橋で左岸に渡りましょう。橋から上流方向を眺めると、右から最初に訪れた三番樋から引き込まれた大和川の水が合流します。

 

 「築留地蔵尊」の前でJRの鉄橋が跨ぐため遊歩道が途絶えます。

 

 しかし100mほど先で近鉄とJRの踏切の間に出るので、右のJR踏切を渡れば長瀬川に戻ります。

 

 ここからは両岸が遊歩道になっているので、どちら側でもいいのでどんどん川に沿って歩きます。

 

 ところどころ東屋風の休憩所が設けられています。

 

 この道は「アクアロード」というようです。

 

 川にはたくさんのコイが泳いでいるのですが、餌でももらえるのでしょうか。水辺に近づけば、たくさんのコイが口を開けてバシャバシャ集まってきます。

 

 「清州交差点」を渡れば遊歩道は左岸に移ります。「州」これもかつての流れに因むのでしょうか。この後、一部遊歩道が右岸や左岸に移ることがありますが、基本的にずっと川に沿って遊歩道が設けられています。

 

 煉瓦敷きの遊歩道はベンチなども設けられていますが、結構日陰が少ないですよ。今日は曇り空だったので大丈夫でしたが、真夏は歩けないでしょうね。

 

 右に何やら「水車」がありました。これはこの裏にある「岡村製油」という会社が、かつて綿実油を抽出する動力のため、長瀬川の流れで動かしていた水車を再現したものだそうです。間もなく大阪府八尾市に入ります。

 

 右に新田ゼラチンという工場が見えてきました。古い工場なのでレトロな社屋や守衛所が見えます。その横には自衛消防隊の「軽四消防車」も。

 

 新田ゼラチンを過ぎれば、その先で流れが二つに分かれました。右はもうひとつの旧大和川である「玉串川」です。玉串川は第2回目で歩くので今日は左へ進みます。この辺りの地名を「二俣(ふたまた)」と言います。(午前9時54分)

 

 右に「八尾温泉喜多の湯」という日帰り温泉がありました。天然温泉ではないようです。詳しくはホームページで。

 

 大阪外環状線の高架をくぐり少し進めば、左にJR「志紀駅(東口)」のロータリー。次回はこの駅の西口からスタートします。

 

 旧大和川は何でもない住宅街を流れます。かつては広大な田畑が広がっていたのでしょうね。

 

 知らなければ「何、この排水路」で終わりでしょうね。「知る」ということの大切さを感じました。

 

 「安中第2公園」を過ぎると、川は緑地へと入ります。

 

 水が引き込まれビオトープのようになっています。

 

 ここは「安中町5丁目公園」です。

 

 公園を抜け左の踏切を渡れば「旧植田家住宅」。(午前10時37分)

 

 国の登録有形文化財に登録されています。入場料250円を払って入りましょう。きれいなトイレがありますが、入場されない方は先ほどの安中町5丁目公園に公衆トイレがあります。

 

 土蔵と主屋、庭などが残る旧家です。展示室と土蔵内の展示物以外は写真撮影がOKです。

 

 大和川の付け替えによってできた広大な河内平野には多くの新田が開発され、そこには現在のJA(農協)のような役割をする「会所」が設けられました。この建物は「安中新田会所」として使用されていたそうです。

 

 立派な主屋ですね。

 

 靴を脱いで中に入ります。私はこれまでの「歩紀」で、一般公開されているいろいろな旧家を訪ねましたが、ここは素晴らしいですね。

 

 庭もきれいです。こんな素晴らしい旧家が近くにあったんですね。

 

 二階に上がれば寝間や。

 

 屋根裏を利用した「つし」と呼ばれる薪や柴の貯蔵場所などが当時のまま残されています。

 

 新田開発された河内平野では綿づくりが盛んで「河内木綿」と呼ばれていました。糸車なども展示されていました。

 

 15分ほど見学し、ちょっと左に進みます。そこには今日の歩紀で唯一の神社である「渋川神社」。お参りします。

 

 長瀬川に戻ってさらに進みます。

 

 私は昔、八尾市内で働いていたことがあるのですが、かつてここには大きな紡績工場があり、赤煉瓦の建物が建っていたように記憶しています。今はマンションになっているようですね。

 

 八尾警察署横に架かるこの橋は「電光橋」というようです。何かいわれがあるのでしょうか。

 

 大阪府立八尾高等学校の広い敷地を左に見ながら進みましょう。明治時代に開校した古い学校で、戦前の選抜中等学校野球大会では甲子園にも出場しているそうですよ。

 

 さらに進めば「本町橋」という橋のたもとに常夜燈と石標が見えてきました。ここは以前、久宝寺寺内町を歩いた時にも立ち寄りましたね。(午前11時26分)

 

 ちょっと市道が横切るのですが、すぐ右に信号があります。川沿いには「八尾浜と久宝寺船着場」。ここにも常夜燈が立ちます。

 

 八尾浜には船着場があり、剣先舟が京橋まで人や米、木材などを運んだそうです。

 

 そのすぐ向かいには、何やら煉瓦造りのレトロな建物がありました。

 

 この辺りから堤防上にはサクラが植えられています。春はきれいでしょうね。

 

 「柳橋」と彫られた橋柱の横には、その名のとおり柳の木が。横に朽ちた切り株があるので、二代目でしょうか。

 

 「東久宝寺三丁目児童遊園」の横に架かる橋には「桜橋」という古い橋柱が立っていました。

 

 この橋は「旭橋」というようです。間もなく大阪府東大阪市に入ります。

 

 大阪中央環状線に阻まれました。上を走るのは近畿自動車道。左右どちらかに迂回しなければなりません。

 

 右に曲がり100mほど進んだ「末広町東交差点」で中央環状線を渡りましょう。角の植え込みの中に「御野立所」と書かれた石碑が立っています。大正3年11月、河内平野で陸軍特別大演習が行われ、大正天皇行幸された際、この付近で休憩されたそうです。(午前11時41分)

 

 中央環状線を渡って左に曲がり長瀬川に戻ります。

 

 しばらく進めば川の上に屋根付きの駐輪場が。間もなく近鉄「弥刀(みと)駅」です。

 

 駐輪場の向こうにアーケードがありました。「金岡本通商店街(かなちゃん通り)」。入ってみましょう。この橋は「金岡橋」というようです。

 

 100mほどの短い商店街ですが「昭和」ですね。

 

 長瀬川に戻り駐輪場を過ぎてさらに進めば、左右に大きな公園が現れました。「金岡公園」です。左は野球場。

 

 右はテニスコートがある東大阪市でも結構大きな公園です。公衆トイレがあります。

 

 東大阪市立長瀬北小学校を過ぎれば近鉄長瀬駅」。長瀬駅前は近大(近畿大学)生にとっては学生街です。

 

 時間は。昼食にしましょう。「近大通り」に入れば、すぐに「餃子の王将」と「松屋」がありました。どっちにしようかな。

 

 「松屋」にしました。「チャーシュー丼(並)」を注文。お味噌汁と生卵が付いて890円(税込)。やはり外国人のためでしょうか?卵の白身を除ける器具が付いていました。

 

 食事を終え午後0時29分、再出発です。少し進めば左に何やら立派なお屋敷が。

 

 100年以上の歴史を有する女子大や女子高を運営する旧女学院の創設者居宅として、昭和7年、帝国キネマ長瀬撮影所跡に建てられた「樟徳館」です。国の登録有形文化財に登録されており、数年に一度期間限定で一般公開されるそうです。

 

 私は東大阪市で育ったのですが、長瀬川といえば「ドブ川」で周辺も工場地帯で殺伐としていたイメージがあったのですが、今はきれいに整備され「疎水百選」にも選ばれているんですね。

 

 途中立派な地蔵尊があったのでお参りしました。お彼岸ですので。堂内には大きな地蔵菩薩が鎮座されていました。

 

 しばらく進めば左に先ほど説明した女子大である「大阪樟蔭女子大学」のキャンパス。作家の田辺聖子さんらが卒業しているそうです。

 

 外からでも創立10周年の昭和2年に建てられた「樟蔭学園記念館」と大正7年の開校時に家事実習室として建てられた「樟古館」が望めます。いずれも国の登録有形文化財に登録されています。

 

 近鉄奈良線のガードをくぐります。私が通勤で長年利用した電車です。

 

 旧国道308号線である府道702号線を「高井田橋交差点」で渡りましょう。この小さな橋が昭和2年竣工の「高井田橋」のようです。

 

 その先の小さな四つ辻で「暗越奈良街道」と交差します。以前3回に分けて歩きました。説明文には、この辺りに新田が開発され、それに携わった「新十郎」「喜七」「多兵衛」の名から「新喜多新田」と名付けられたと書かれていました。昔は渡し舟があるほどの川幅だったそうです。

 

 向かいの角には「大阪府里程標」。

 

 東大阪市立新喜多中学校前を通過します。この辺りから小雨がポツポツ降ってきましたが5分ほどで止みました。

 

 この先から長瀬川に沿って「長瀬川遊歩公園」として整備されています。

 

 公園は、上を阪神高速が走る国道308号線(中央大通り)で分断されます。(午後1時11分)

 

 右へ曲がり「西堤交差点」で迂回して長瀬川に戻りましょう。

 

 こんな看板がたくさん掲げられているのですが、訳されている外国語は一か国語だけですね。日本語もいらないんじゃないですか。

 

 その先でJRおおさか東線のガードをくぐります。おおさか東線は平成20年3月、旅客線化されましたが、それまでは「城東貨物線」と呼ばれ貨物列車が走っていました。私の小さいころ蒸気機関車が走っていましたよ。「ポ~ッ」という汽笛がよく聞こえていました。

 

 ガードをくぐりしばらく歩けば右に「新喜多公園」。もうすぐ秋祭りのようです。樟蔭女子大の校章も「菊水」だったのですが、何か関係があるのでしょうか。

 

 東大阪市にはまだ消防団があるんですね。そういえば先ほど消防章の付いたキャップを被ったおじいちゃんが散歩をしていました。

 

 ここから遊歩道はなくなりますが、もうゴールです。

 

 「新田橋」を過ぎます。この辺りも新田が開発されたのでしょうか。ここは大阪市城東区です。

 

 そして長瀬川最後の橋である「皆喜(かいき)橋」から先を見れば「長瀬川1号水門」。高い堤防に囲まれているので川は見えませんが、この水門の先で旧大和川本流である長瀬川は第二寝屋川と合流して流れを終えます。江戸時代には「新開池」に注いでいたのでしょう。旧大和川歩紀1のゴールです。(午後1時31分)


 先ほどの新田橋に戻り左折。その先の四つ辻を左に曲がって「放出駅東橋」で第二寝屋川を渡りましょう。

 

 川を越えれば大阪市鶴見区です。左には「放出駅南公園」。ここから長瀬川と第二寝屋川の合流地点が見えました。遠くには生駒山地が見えます。長瀬川の端から端まで歩いたんだなあ。

 

 そのすぐ北側が本日のゴールJR「放出駅(南口)」。以前、「大阪24区を歩く」で鶴見区を歩いた時のゴールは北口でした。大阪の人は当たり前のように「はなてん」と読みます。ちょっと早めの午後1時39分到着です。

 

 本日の歩紀「22889歩」(15.56km)。柏原から放出まで結構距離はありますが、川下りの様に流れに沿ったため最短距離で歩くことができました。ここから大阪駅まで京橋駅大阪環状線に乗り換えて約15分(200円)。次回は、もうひとつの旧大和川である「玉串川」を歩きます。