訪問日:令和7年11月2日(日)
楠根川が合流した地点から右へ進み第二寝屋川の左岸を歩きます。遠くに生駒山地が見えますが、「第二寝屋川」は生駒山地が水源ではなく恩智川から分流し、途中「玉串川」「長瀬川」「楠根川」が合流するものの、水害対策のため戦後新たに開削された川であり「旧大和川」ではありません。(午前11時)

また大阪城の北側で「寝屋川」に流入するだけで、寝屋川とはまったく別の川です。私は子どもの頃「何故、東大阪市に寝屋川が流れているのだろう」と思っていました。付近には町工場が密集しますが、これらの町工場が日本の工業技術や経済を支えているんですね。

八幸橋を過ぎれば右に「幸第1公園」。園内には大坂夏の陣「若江の戦い」で戦死した豊臣方の家臣「木村重成」の墓があります。

橋を渡り第二寝屋川を挟んで向かい側の共同墓地内には、徳川方の家臣「山口重信」の墓が。この辺りは古戦場跡なんですね。

第二寝屋川に沿って進みます。川が八尾市と東大阪市の市境です。

真っ直ぐ進めば「玉串橋南詰交差点」。近鉄山本駅前で一旦分かれた玉串川が合流してきます。そして第二寝屋川は戦後開削されたため、この部分は東大阪市の飛び地になっています。昔「朝鮮高校」がありました。

ここで玉串川は滝のように第二寝屋川に流入します。ところが第二寝屋川を渡ったところで玉串川は再度復活するのです。玉串橋を渡ってみましょう。振り返れば玉串川が滝となって落ちる様子がよくわかります。では何故、玉串川は復活するのでしょうか。それは滝の手前で取水し、向かって左に見える導水橋で第二寝屋川を渡るのです。そう玉串川は空中を流れているのです。(午前11時24分)

しばらくは暗渠の中を流れ、その上が歩道になっているので進みましょう。そして途中から川が現れました。私は小さい頃「この川はどこから流れてくるのだろう」と思っていました。

そして暗渠の出口に架かっている石橋には何やら文字が彫られています。この橋の横に横断歩道があるので府道を渡り、玉串の村中に入ります。

極楽寺が右に見えれば左折します。そこには鳥居が。この後訪れる「津原神社」の鳥居です。元禄12巳卯(1699)年11月24日と刻まれています。そしてその下には「玉櫛庄」の文字。現在の東大阪市玉串です。

鳥居をくぐり参道を北へ進みます。右には地車庫。

河内警察署玉串交番、東大阪市立花園小学校を過ぎれば角に「忠魂碑」。

そして突き当りには「津原神社」。神社前に掲げられた由緒によれば、かつて水害に見舞われた際、加美村(現在の大阪市平野区)の八幡宮より「大和川上流から櫛を流し、たどり着いた場所に神を祀れ」とのご神託を受け、櫛が流れ着いたこの地に祀られたそうです。これが玉櫛庄、玉櫛川。現在の「玉串」の由来のようです。(午前11時42分)

天児屋根命、天玉櫛彦命、天櫛玉命を祀ります。これらの神々は物部氏とかかわりの深い「先代旧事本紀」によれば、降臨した饒速日命の随行神だそうです。

神殿の裏には櫛が流れ着いたと言われる「津原の池」。干ばつの際には雨乞いを行い、池の水を田んぼに汲みだしたと伝えられています。

かつての河内湖の名残とも。

鳥居はありませんが神社の正面で道は左右に分かれます。その手前に左へ入る路地があるので入りましょう。しばらく進めば立派なお屋敷が。

ここを右に入れば板塀の横に小さな祠が。看板の説明によると「歯」にまつわるお地蔵様(神様)のようですね。

この路地を真っ直ぐ進めば近鉄「河内花園駅」の南口です。私が子どもの頃は平屋の小さな駅舎でしたが、今は高架になり立派な駅に生まれ変わっています。(午前11時51分)

駅の北側はかつて「花園駅前商店街」というアーケード商店街でした。任侠、ポルノ専門の「河内東映」なんていう映画館もあましたが、今は商業施設とマンションになっています。

奥に商店街の跡がありました。駅は大きくなりましたが、商店街は寂れていますね。アーケードもありません。かつてのアーケード商店街に進んでみましょう。

この道は玉串川から分岐した「吉田川」の堤防上です。見ていただければわかるように生駒山に向かって下り坂が。商店街跡の山側はすべて下り坂です。

では玉串川の分岐点に行ってみましょう。花園駅前に戻ります。おやおや時間は。

良い所に良い店があるじゃないですか。「餃子の王将河内花園駅前店」です。

今日の昼食は「なつかしの中華そばセット」(税込1279円)。私はひとりで個人経営の店に入るのが苦手なのです。小心者なもんで。

食事を終え、午後12時20分再出発です。かつての玉串川は、店の前にあるこのバスロータリー付近で「吉田川」と「菱江川」に分かれていたようです。いずれの川も今はありません。そして玉串川も埋め立てられてしまったそうです。

今は都市開発により広い通りになっていますが昔は狭い路地でした。「万代」という大阪ではお馴染みのスーパーを過ぎたところにある「菱屋東南会館」の右側が旧菱江川のようです。ただ横断歩道がないので、この先の押しボタン式信号まで進みましょう。

右は昭和の中ごろ田んぼの真ん中に作られた道で、国道308号線の角に大阪ガスの営業所があったことから「大阪ガスの道」。また東大阪市の飛び地にあった朝鮮高校が、この先に移転したことから「朝高通り」と呼んでいました。春はサクラがきれいですよ。その朝鮮高校も統廃合により移転したんですね。

信号を渡って左へ。先ほどの菱屋東南会館横の路地に入り、いかにも川の跡というような細い道を進みます。

「近畿自動車教習所」前の三叉路に出ました。菱江川跡は真っ直ぐ進むのですが、この先の府道には横断歩道がないので左に曲がります。

すぐ先の信号で府道を渡り右へ進めば「長次郎寿司」の前で先ほどの近畿自動車教習所前からの延長線上に出るので路地に進みましょう。

路地はすぐに緑道になります。

途中の公園内にあった案内板によると菱江川は川幅約150mの大きな川だったそうです。

何やら案内板が見えてきました(振り返って撮っています)。ここに「八劔橋」という橋が架かっていたそうです。この先で菱江川は「新開池」に注いでいたのでしょうか。そして八劔橋を渡っていたのは「暗越奈良街道」。(午後0時40分)

左を覗き込めば、以前、暗越奈良街道を歩いた時に訪れた「八劔神社」が見えます。以前立ち寄ったので今日はお参りしません。右へ曲がり街道に沿って歩きましょう。

やがて「菱江交差点」に出ます。暗越奈良街道を歩いた時は、あえて旧道を歩くたため交差点を渡り旧道に進みましたが、今日は真っ直ぐ旧国道308号線を生駒山に向かって歩きます。

途中、左から暗越奈良街道が合流して来れば「河内警察署」「河内郵便局」。東大阪市は昭和42年に「布施」「河内」「枚岡」という3市が合併して誕生しました。平成の大合併以前のことで「町」「村」ではなく「市」同士の合併では成功例だそうです。市役所や消防署、体育館など旧市の機関は、それぞれ「西」「中」「東」という名称になり、現在では「東大阪」という市名も定着しました。旧市名が残っているのは警察署と郵便局くらいでしょうか。

「大阪ガス」の建物も随分立派になっていますね。

「英田農協前交差点」に出れば左に曲がります。「英田」と書いて「あかだ」と読みます。次回はいよいよ中甚兵衛誕生の地「今米」を訪れます。(午後0時56分)
