訪問日:令和7年11月24日(月)「勤労感謝の日」の振替休日
出 発:阪急電車「十三駅」
到 着:阪急電車「十三駅」
素晴らしい資料と出会いました。国土地理院がwebで一般公開している「明治期の低湿地データ」。本来は水害等の災害対策に資するため作成されたそうですが、そこには何と、すでに埋め立てられたり改修されて廃川になったものも含め、明治期の川筋が現在の市街図と重ねられた状態で記載されているのです。私の「歩紀」にとっては超一級の資料です。そして今回は、大阪の町に埋もれてしまった「かつての淀川」である「中津川跡」を歩きます。大阪市内なので給水・トイレの心配はありません。なお、本データについては、各自webでご覧ください。
ところで「かつての淀川」「中津川」って何?そもそも「淀川」ってどの川を言うの?ということで、ちょっとだけ「淀川」についておさらいをしておきます。
日本最大の湖「琵琶湖」から溢れ出た水は、「瀬田川」となって南に流れます。京都盆地に入ったところで「宇治川」と名を変えた後、京都・大阪の府境で北から「桂川」、南からは「木津川」が合流し、ここから「淀川」となって大阪平野を流れ、大阪湾に注ぎます。写真は、大阪府摂津市を流れる「淀川」です。

「淀川」は、大阪市都島区毛馬あたりで大きく左に曲がり、「大川」と名前を変え、大阪市の中心部を流れます。

大阪城がそびえる上町台地の先端にぶつかった「大川」は、90度西に流れを変え、天神橋辺りで「土佐堀川(左)」と「堂島川(右)」に分かれます。

3kmほど先で2つの川は再度合流するのですが、この間にできた長細い中州が「中之島」です。そして、その先で「安治川」「木津川」さらに「尻無川」に分かれ、大阪湾に注ぐのです。

しかし、幾度も洪水を繰り返していた「淀川」は、明治18年の大洪水を機に大きく改修されることとなりました。毛馬のやや上流に当たる守口市から、そのまま直線的に大阪湾への水路を開削することになったのです。その結果、明治29年、全長16kmにわたる大きな水路が開け、「淀川」の水は大阪市の中心部を避け、直線的に大阪湾へ流れることになりました。この大きな放水路は「新淀川」と名付けられました。

そして、それまでの本流であった「大川」が「淀川」と呼ばれることになるのですが、昭和の時代に入り、行政上の区分では「新淀川」が「淀川」になりました。

そのためそれまで「淀川」と呼ばれていた「大川」は、「旧淀川」と呼ばれるようになるのです。

しかし、「旧淀川」と呼ぶ人はいません。大阪の人にとって「大川」は、今でも「大川」です。「淀川」についてザクッとした説明でした。たくさん名前があって、どれがどれやらわかりませんね。

次回、「中津川」の説明をした後、「歩紀」の開始です。