野里町歩紀

月1回のペースで大阪近郊の「野」「里」「町」を歩きます。そして合間にちょっと気になったことや世情について思いつくままつぶやきます。ただ論争は好みません。

旧神崎川右岸を歩く3~豊中に入り「神洲橋」まで~

訪問日:令和8年2月23日(月)天皇誕生日

 椋橋を渡れば大阪府豊中市に入ります。

 

 そこには「金毘羅大権現常夜灯」。フェンスに説明文が掲げられています。常夜灯には弘化4(1847)年の年号が刻まれ、橋がなかったころにあった渡し舟の目印や安全祈願のため建てられたのではないかといわれています。

 

 橋を渡って右へ。「椋橋神社御旅所」がありました。この道が「旧猪名川堤防跡」です。尼崎のコストコに行く時に車でよく通るのですが、全然気が付きませんでした。やはり「歩紀」は、視野が広がりますね。

 

 この先で堤防は大きくカーブします。道端には地蔵尊。堤防上を多くの人が行き来していたのでしょうね。

 

 カーブの先にある「豊中市立庄内西小学校」を過ぎれば阪神高速空港線が走る府道に出ます。右には「コーナン」。信号で府道を渡りましょう。

 

  信号を渡れば正面に「日蓮宗新福寺」という大きなお寺が。「萱野三平墓所」と掲げられています。(午前11時3分)

 

 立派なお寺です。ちょうど山門前が舗装工事中だったので、警備員さんの誘導でお参りしました。ご苦労様です。

 

 赤穂浪士の一員として仇討ちに加わろうとしたところ、身を案ずる父に止められ断念。忠義と父親との間で苦しみ自刃しました。一番右が萱野三平。その横に叔父、父、兄の墓石が並びます。

 

 当寺は、萱野家が仕えた大嶋家の菩提寺であったため、萱野一族の墓も建立されているそうです。

 

 新福寺を左に見ながら府道を南へ。次の交差点を左に曲がり市道を進みます。この辺りで旧猪名川は旧神崎川と合流していたようです。

 

 150mほどで道が二つに分かれました。左の狭い道が堤防跡です。

 

 少し歩けば左に「外島樋門跡」碑。裏面の碑文を読むと、今は緑道になっている農業用水が、昭和5年までここで神崎川に流れ込んでいたそうです。

 

 そしてその隣には「共同墓地」。うむうむ。

 

 そのまま進めば、先ほどの市道と合流します。その先には「八幡宮神社前交差点」。横にある石柵前に「神崎川旧堤防の跡」碑。この道が堤防跡なのです。

 

 そして神社の北側には古い集落が残っています。さ迷ってみましょう。

 

 特にコメントはしません。画像をお楽しみください。

 

 あっ、神社にお参りするのを忘れていました。この神社は「洲到止(すどうし)八幡宮」。左岸編で立ち寄った「神洲橋」で結ばれている北側の字(あざ)です。(午前11時34分)

 

 堤防跡である市道を進みます。阪急神戸線のガードに突き当たれば右へ。

 

 ゴルフ練習場を過ぎたところが、左岸編でも訪れた「神洲橋」の北詰です。ちょっと河川敷に下りてみましょう。

 

 そこには「洲到止渡場の跡」碑。碑自体は、昭和52年に建てられた新しいものですが、かつてはここを渡し舟が行き来していたようです。渡しや橋は、町民や旅人の利便もあったのでしょうが、幕府としても年貢米を運ぶため重要だったのでしょうね。(続く)