訪問日:平成22年5月30日(日)
出 発:阪急バス「霊園事務所前」
到 着:阪急バス「余野」
大阪府の北部「豊能郡」。能勢町と豊能町の二つの自治体から成る。
能勢町は大阪府の最北端であるが山間部を流れるいくつかの川沿いに広大な田園地帯が広がる。豊能町は四方を700メートル近い山で囲まれた山地である。能勢電車沿いに開発されたニュータウン部分を除いては、すり鉢状の盆地の底に「吉川」「余野」「高山」の3つの集落がひっそりと佇んでいる。特に西地区の「吉川」と東地区の「余野」「高山」は600メートルを超える山塊で遮られ、平成17年、箕面森町のバイパスができるまでは、一旦兵庫県川西市黒川を経て能勢に出、標高470メートルの険しい野間峠を越えなければ往来できなかった。今でさえ箕面市を通らなければならない。
キリシタン大名「高山右近」生誕の地。「隠れキリシタンの里」と言われ600メートルを超える山々に囲まれた「高山」。ここから「川尻石仏群」を経て「余野」に向けて歩く。山越えをするが登山には至らない。時折、道沿いに自販機があるくらいで店やトイレはない。(歩行距離15キロ)
豊中市の千里中央から北摂霊園行きの阪急バスに乗れば約40分(620円)で「霊園事務所前」停留所に着く。北摂霊園は大阪でも有数の公園墓地で春は桜の名所である。霊園の中を阪急バスが走るが、この停留所が入り口にあたる。
霊園の前を流れるのは箕面川。この下流に箕面の滝がある。川を渡り一旦高山とは反対方向に川に沿って歩く。10分ほどで「高山マリアの泉」という湧き水に出る。謂われは知らないが、キリシタンの里「高山」にちなんで名付けられたのだろう。
来た道を戻り北摂霊園の前を過ぎて高山方面に向かう。
高山は、北に戸知山(602メートル)、東に石堂ケ丘(680.5メートル)、南に鉢伏山(604メートル)、西に明ケ田尾山(619.9メートル)がぐるりと囲む小さな盆地の集落であるが、真ん中に小判型をした小山があり、いっそう盆地を狭いものにしている。かつて山上には向山城という城があったらしい。
この小山を時計回りに一周する。ちょっとわかりづらいが左に山手へと向かう小さな坂道がある。その坂道を登りつめたところの左側の木陰に「高山右近生誕之地」と刻まれた石碑が立つ。石碑には十字架が。
高山右近は、この地で生まれ戦国時代、キリシタン大名として名を馳せ後に高槻に城を構えるが、ついにはフィリピン・マニラに流され生涯を閉じる。高山右近については「西国街道を山崎から高槻へ」でも触れる。
小さな小山のちょうど真北あたりまで進むと「高山の高札場跡」に出る。高札場とは、領主が法度・掟などを領民に知らしめるために設置された掲示板であるが明治時代初めに廃止された。地蔵石仏などと一緒に大切に保存されている。
中には、
定
一、切支丹宗門之儀ハ是迄御禁制之通固く可相守事
一、邪宗門之儀ハ固く禁止候事
慶応四年三月 太政官 右之通被 仰出候門堅可相守者也 日向
と書かれた高札がある。わが国最後のキリスト教禁止のお触れ書きと言われている。
高札場跡を過ぎれば北摂霊園から来た道と交わり前には高山の公民館がある。付近には妙見山や勝尾寺方面への道標なども残されている。
山手に登ると狭い高山の集落が望める。
わずかな地を利用して水田が開けており、そこから東(右)に向け「高山の棚田」がせり上がっている。左の山陰に見えるのは「住吉神社」。杉や檜の樹林で覆われ、ここの杉8本は種子の母樹として大阪府から指定を受けているらしい。神社の前を通り棚田の頂上に向かう。
一旦、上まで上り棚田の風景を楽しみながら元の道へと戻る。
山の頂上に清水が湧き、その清らかな水が田に引かれている。おいしいお米が実るのだろう。
高山の集落を後にする。途中、案内板に従って「高山マリアの墓」に向かう。木の根元に4つの墓石が立つ。なぜか一つだけ離れている。江戸中期(1736~1751年)の年号が刻まれているが「マリア」の文字はない。古老によると2軒の夫婦墓で、高山最後のキリシタンであったらしく、誰ともなく「マリアの墓」と呼ぶようになったらしい。小さな十字架のペンダントなどが供えられていた。
350~400メートルの高度差を一気に下り「川尻」へと向かう。目前には700メートル近い光明、天台の山脈が。この深いV字谷に余野川が流れる。
アザミと戯れるクロアゲハ。
山を下り国道423号線と交わる直前に「川尻向井山宝篋印塔」と「川尻向井山地蔵石仏」が並ぶ。宝篋印塔は高さ約3メートルの花崗岩製で豊能町内にある江戸期の宝篋印塔では最大の塔である。享保7年(1722年)の造立だ。地蔵石仏は、室町前期のものと考えられている。
これらの石仏の奥に小さな道が見える。旧池田(摂丹)街道跡である。
すぐに川に突き当たり途絶えるが、福祉施設のフェンス脇に小さな道標が埋もれるように立っている。正徳4年(1714年)の造立で、京・丹波へ行く人々を案内したのだろう。
余野川を越え700メートル近い光明・天台山系の中腹に広がる「川尻石仏群」を訪ねる。さっそく迎えてくれたのは「川尻殿方庚申塔婆」。商売繁盛・豊作を願う庚申信仰にちなむ塔婆で享保七壬天十月八日(1722年)と刻まれている。
山の中腹からは余野川左岸の斜面に広がる川尻の棚田が美しい。
川尻の集落を抜ける。
集落の上には「川尻打越阿弥陀三尊石仏」。この石仏は、以前、天台山の中腹にあったが、この山から見渡せる尼崎の漁師が、お地蔵様が光ってイワシが獲れないというので、この地に移されたらしい。南北朝期の正平7年(1352年)の造立で川尻の石仏では最古のものだ。正平とは南朝の年号だという。
さらに進む。集落を抜けたところに「川尻中の谷多尊石仏」と「川尻中の谷光明真言板碑」が並ぶ。
川尻の最奥部へと進む。途中、道路から崖を下りたところに「川尻北の谷磨崖仏」がある。天正17年(1548年)の銘文がある。
ここは「おおさか環状自然歩道」案内板も整備されており迷うことはない。
いくつかの道が交わるところに出るが、その脇に「川尻北の谷大峰供養塔」(左)と「川尻北の谷不動明王板碑」(右)が並ぶ。供養塔は享保9年(1724年)、板碑は天正16年(1588年)の刻銘がされている。
「高野山真言宗法輪寺」に着く。標高は400メートルを超えているだろう。寺の下に「法輪姫の塔」と呼ばれる3基の宝篋印塔が並ぶ。南北朝中期から後期にかけて建てられたものらしいが「法輪姫」とは誰のことだろう?
法輪寺は出世大黒天とも呼ばれている。境内ではちょうど本堂の屋根の葺き替え工事が行われていた。もう出世を願う歳ではないが瓦を1枚寄進してきた。後日、丁重な礼状が届いた。
境内には茅葺きの小さなお堂があり、前には小さな宝篋印塔が建てられていた。
左手前の九重塔の横にも宝篋印塔がある。南北朝期の造立である。
川尻の集落を後に下る。
日本の原風景のひとつ農具庫。能勢地方にはたくさん残されている。
カーブする小径に抱えるられるような林の中に「川尻北の谷多尊石仏」と「川尻北の谷双代地蔵石仏」が多くの石仏に囲まれて立つ。
川尻の余野川右岸に広がる棚田。ここから一気に高度を下げる。
国道423号線沿いの消防署前に出る。右折し清らかな余野川を越える。
字名は木代に変わる。案内板に従い木代の田園越しに余野の町を眺めながら藪の中へと入っていく。
竹藪を進むと突き当たるので右へ。今日、最後の「たぬきやぶ多尊磨崖仏」。合掌する16体の地蔵像が刻まれている。このあたりは狸がでるのだろうか。化かされないうちに来た道を戻り「余野」へと向かう。
中央公民館前から豊能町巡回バス(100円)通称「たんぽぽバス」で帰宅の途へ。本日の「歩紀」5時間20分。池田方面へは町役場前から阪急バスが出る。池田駅まで約40分(540円)。