訪問日:平成24年4月29日(日)
出 発:近鉄電車「高鷲駅」
到 着:近鉄電車「土師ノ里駅」
大阪府羽曳野市、藤井寺市にまたがる「古市古墳群」。ここには、現在でも大小100基を越える古墳が存在する。今回、小さな陪塚も含め確認しただけで24基の古墳を訪ねた(通り過ぎた児童公園や小さな雑木林が古墳であったりするので、はっきりした数はわからない)。しかも、その内7基は「天皇陵」。また、日本武尊の「白鳥陵」や応神天皇皇后陵である「仲津媛陵」は天皇陵にも負けない規模だ。
ただ古墳は、地上から見れば単なる小山にしか見えず「拝所」もほぼ同じ造りであることから、画像が単調になりがちなのは仕方がない。それに彩りをつけるため1000年の歴史を越える寺社をいくつか訪ねた。
平坦な舗装道を歩く。いくつかの駅前を通り寺社を訪ねるので、給水・トイレには困らないが、思いのほか日陰が乏しいので暑さ対策をしっかりと。(歩行距離20キロ)
近鉄南大阪線「高鷲駅」。普通電車しか停まらないので、大阪阿部野橋駅から途中、河内松原駅で乗り換え約15分。駅前(北口)の自動販売機で給水し出発。
駅正面の中学校のフェンス沿いに左に進むと三叉路に突き当たるので右折。歩車道の区別がないので車に注意しながら北に進む。府道を越え10分ほどで突き当たるので左へ、二つ目の辻を右に曲がり次の辻を左に曲がると茅葺きの古い旧家に出る。
「吉村家住宅」だ。吉村家は、羽曳野・八尾・柏原一帯を統括した大庄屋で、この屋敷は元和元年(1615年)に建てられたとか。母屋は春・秋の年2回公開されるだけだが、外から見られる「長屋門」と「土蔵」も母屋とともに重要文化財に指定されている。
先ほどの突き当たりまで戻り、そこを東に直進する。5~6分で右側に池に浮かんだ円墳が見える。今日最初に訪れる天皇陵「雄略天皇丹比高鷲原陵」だ。第21代雄略天皇。実在したのか諸説あり、また、宋書の倭五王の「倭王武」に比定されることも。ただ、このページでは、天皇史の詳細や説には触れない。
そのまま進み、二股を右に折れると駐車場の脇に拝所への玉砂利道がつながる。
すぐに拝所に着く。「雄略陵」は東側に台形の森が広がり、その東端に拝所が設けられているので、空から見れば前方後円墳に見えるかも知れないが、直径76メートルの真ん丸の円墳だ。
拝所を出て南へ3~4分歩くと府道の交差点に出るので左折。小さな水路が市境となっており、羽曳野市から藤井寺市に入る。
5~6分で「藤井寺駅まで250メートル」の看板が立つ岡2丁目交差に出るので標識に従い右折。大型スーパーや家電店が並ぶ駅前通を通り、近鉄藤井寺駅の構内を抜けて駅南側へ。線路沿いに西(左)へ進むと踏切を商店街が横切るので右折しアーケード進む。駅から10分ほどで「右に辛国神社、左に葛井寺」の四つ辻に出るので左折、葛井寺に向かう。左に葛井寺の南大門が見える。
葛井寺は、神亀2年(725年)に行基が開いたと言われる。本堂に安置される先手観音坐像は国宝である。葛井寺と書いて「ふじいでら」と読み、今の地名である「藤井寺」の元になったといわれる。
境内は丁度、藤の花が満開で「藤まつり」が開かれていた。
南大門前には両角に古い道標が残されている。

右に「辛国神社」が見える。468年、物部氏が祖の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祀った物部神社が後に家臣「辛国連」が祭祀となったことから辛国神社と呼ばれるようになったとか。「大阪みどりの百選」にも選ばれた約200メートル続く緑深い参道を進む。
その名前からも渡来系だと分かる。ここらあたり一帯は、かつて渡来人が開いた所だといわれている。ここの境内も藤の花が満開だった。
参道を戻り四つ辻を右へ、二股に道が分かれるので左に進むと幼稚園の向こうに小山が見える。「鉢塚古墳」と呼ばれる全長60メートルの前方後円墳。フェンスで囲まれているようだ。
5分ほどで左に異様な形をしたコンクリートの建物が見えてくる。藤井寺市立生涯学習センター「アイセルシュラホール」だ。船型埴輪をモチーフしている。「シュラ」とは、後で出てくる「修羅」のこと。
2階は資料室になっており入館無料。トイレや自動販売機、休憩所もある。
2004年、中国西安で発見された墓誌から「井真成(いのまなり)」という遣唐使の日本人留学生の存在が明らかになった。井真成の出自が藤井寺一帯で栄えた渡来系の「葛井氏」か「井上氏」一族と見られたことから特別展が開かれていた。 
アイセルシュラホールを出て南に進むと、右に民家越しに「山」が見え隠れする。次に向かう「仲哀天皇陵」だ。地図を頼りに進み「割塚古墳」という小さな古墳を過ぎると右に大きな古墳が現れる。
2つ目の天皇陵。第14代天皇である仲哀天皇の御陵「仲哀天皇恵我長野西陵」。
周囲を堀に囲まれた全長240メートルの巨大前方後円墳。皇后は新羅出兵で知られる「神功皇后」である。
拝所からそのまま進み、御陵の西端で府道と交わるので左折し南へ歩く。市境を越え羽曳野市に戻る。10分ほどで「野中寺」という交差点に出る。そのすぐ北側に「野中寺(やちゅうじ)」がある。
現在は「高野山真言宗」に属しているが歴史は古く、7世紀初期に聖徳太子が蘇我馬子に命じて建てられたといわれる。中門をくぐると三重塔跡の礎石や石棺、金堂跡などが境内に残る。
三重塔跡礎石
ヒチンジョ池西古墳石棺
金堂跡に立つ石塔
野中寺の西隣にある「野々上八幡神社」にも参る。
野中寺中門から南に進み一つ目の交差点。ここは、かつての「竹内街道」らしく高灯籠などが建てられている。
交差点を左に曲がる。街道らしい雰囲気の街並みだ。
道なりに進むと、「仁賢天皇陵」への小さな標識柱が立っていたので、それに従い左折した。すぐに小さな公園があり、そこから「仁賢陵」を間近に見ることができた。御陵の手前を市境が走り、御陵自体は藤井寺市にある。
しかし、そこからは拝所に行けないので、元の道に戻り南へ、すぐに「仁賢天皇埴生坂本陵」の石柱が立つので左に曲がるとすぐに拝所へと出る。3つ目、第24代天皇。全長122メートルの小さな前方後円墳であるが、周囲は堀に囲まれている。
300メートルほどで「峯ケ塚公園」という公園に突き当たるが、丁度昼時になったのですぐ左に見える「LICはびきの」という建物に向かう。
ここは、羽曳野市の施設で図書館などのほか喫茶コーナーがあったので「カレーライス」を注文した。
食事を終え、先ほどの「峯ケ塚公園」に向かう。ここは、「峯ケ塚古墳」と「小口山古墳」を中心とした古墳公園である。
半分堀が残る「峯ケ塚古墳」。
芝生公園の奥にあり、頂上まで上れる「小口山古墳」。
峯ケ塚公園から見えるこんもりとした山は、この後訪れる「日本武尊白鳥陵」だ。
峯ケ塚公園の南東出口から出て南に約300メートル。今回4つ目、第22代天皇である清寧天皇の御陵「清寧天皇河内坂門原陵」。全長115メートルだが周囲を堀に囲まれた立派な前方後円墳である。
御陵の北側の道を抜け、歩道橋のある交差点で大阪外環状線と呼ばれる国道170号線に出るので、信号を渡らずに右へ。堤に立つ「河内坂門原陵」の石柱越しに円墳部を望む。
歩道橋の交差点まで戻り信号を渡る。道なりに行けば左手、地蔵堂の横に「軽里地車庫」。ここら辺りは、祭りになると「だんじり」が巡行するようだ。方々に地車庫が見られる。
地車庫の前の路地を進んでいくと「日本武尊白鳥陵」の拝所に出る。日本武尊は景行天皇の子で数々の英雄伝説の主人公だ。日本武尊は、能煩野というところで戦死し、白鳥となって高天原に向かう途中、ここ古市に立ち寄り、その地が「白鳥陵」と伝えられる。その後、羽を曳くように飛び立ったことから、この地を羽曳野と呼ぶようになったといわれている。
拝所にあった宮内庁の詰所。ちょっとレトロだったのと、玉砂利をならす熊手が掛けられてあったので一枚パチリ。ご苦労様です。
御陵の北側は、旧竹内街道。「ウォーキング・トレイル」という遊歩道になっているが車も通るので注意。
「白鳥陵」は、全長189メートルの前方後円墳。周囲を堀が囲む。
遊歩道を過ぎると旧国道175号線に出る。信号を渡らずに右折する。およそ300メートルで近鉄古市車庫を渡る。いい風景だ。この風景を見るために信号を渡らなかった。
続いて古市駅から分かれた近鉄長野線を越える。坂を下りるとすぐ左に「安閑天皇陵」の拝所が現れる。信号がないので注意して渡ろう。第27代天皇である安閑天皇の御陵「安閑天皇古市高屋丘陵」。今日5つ目の天皇陵だ。
全長122メートルだが周囲を堀が囲む立派な前方後円墳である。このくびれが、前の方墳部と後ろの円墳部の境だ。規模が小さいのではっきりとわかる。
御陵の北側を抜け、小さな不動尊で願を掛けた後、車道と合流。近鉄南大阪線の踏切と小さな川を渡る。「西琳寺」への看板が見えると路面がペイントされている道に出る。東高野街道だ。
すぐ左に南町の会所があり、その隣には「南町地車庫」が立つ。
東高野街道を120~130メートル進むと右に入る路地もペイントされていたので誘われるように入ると「浄土真宗本願寺派真紅寺」の前に出る。山門右側の案内板によると、ここに古市郡の郡役場が置かれていたという。
寺の北側を走る竹内街道を右折するとすぐに「東町地車庫」がある。
Uターンして、「真紅寺」を回るように東高野街道に戻る。ここは、東高野街道と竹内街道が交わる「古市六町簑の辻」。古い道標が立つ。
さらに3~4分、東高野街道を北上すると右に寺の山門が見えてくるので右折。「西琳寺」という古刹だ。今は高野山真言宗であるが6世紀ころに渡来した「河内文」氏の菩提寺として創建されたらしい。山門前には道標や地蔵尊が境内には巨大な五重塔心礎と五輪塔などが残る。
五重塔心礎。30トン近くあるらしい。
真言律宗の開祖「叡尊」らの墓碑である五輪塔が並ぶ。
「西琳寺」と東高野街道を挟んで「白鳥神社」の鳥居が見える。
200メートル以上続く参道を進むと拝殿に出る。この場所は、欽明天皇の仮陵である前方後円墳の上に立てられたそうだ。
東高野街道に戻り、さらに北へ歩く。近鉄南大阪線の踏切を渡り、続く旧国道170号線を渡る。国道脇には高灯籠が立つ。
途中、道標も見られる。
100メートルほどで「誉田八幡宮」前に着く。
境内に入ってすぐの地車庫前で若者たちがだんじりの点検をしていた。
「誉田八幡宮」は、応神天皇の宗廟として欽明天皇の勅命により6世紀頃、応神陵前に建てられたと伝わる。応神天皇の諡号は「ホムタワケノミコト(誉田別尊)」である。
祭りが近いのだろうか、境内奥の地車庫前でもだんじりが出されていた。
天満宮を後に南大門から出ると、そこでもだんじりの点検をしていた。
これよりしばらく東高野街道と分かれ本日6つ目、そして最大の御陵「応神天皇陵」に向かう。どうせ全容は望めない。途中見えた後円墳の一部を撮影しておく。「山」にしか見えない。
小さな水路脇を抜け、御陵の西側を歩く。この長く続く森の奥に堀があり、その中に巨大な前方後円墳が浮かぶ。
大阪外環状線「応神陵前」交差の手前で右折し拝所に向かう。お馴染みの「制札」が立つ。
拝所は、ここからもう少し歩かなければならない。さすがにでかい。拝所までの玉砂利道の左にある小山は「丸山古墳」という円墳で「応神陵」の陪塚である。
拝所も広く立派だ。第15代天皇である応神天皇の御陵「応神天皇恵我藻伏崗陵」。百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵に次いで日本で2番目に大きい前方後円墳で全長415メートル。しかし、三重の堀で囲まれた仁徳陵を体積では凌ぐと言われている。 
応神陵の北側の道を隔てたところにある小山は「大鳥塚古墳」という全長115メートルの前方後円墳。埴輪などが出土されたらしいが被葬者などは不明。この道は市境であり、ここからは藤井寺市になる。
西名阪自動車道の高架をくぐり左手の団地内に入ると小さな公園がある。これは「盾塚古墳」という帆立貝型の古墳で、手前の四角い台状の所が帆立貝の蝶つがい部分にあたる。「応神陵」の陪塚と見られる。向こうに見える小山が次に訪れる「仲津媛陵」だ。
団地を抜け、山を目指していく。民家を抜けたところの右側に拝所がある。「仲津媛」とは応神天皇の皇后であり、御陵も全長290メートル、古市古墳群では「応神陵」に次ぎ全国でも10位の巨大古墳で天皇陵に引けを取らない。
道を挟んで「仲津媛陵」の反対側にも大きな前方後円墳がある。「古室山古墳」と呼ばれ全長150メートル。埴輪などが出土しているが被葬者は不明、宮内庁管轄ではないので出入りが自由である。
一旦、御陵の南側に戻り左折して道明寺方向に向かうが、途中右側に「助太山古墳」「中山塚古墳」「八島塚古墳」という3つの古墳が並び「三塚古墳」と呼ばれている。住宅地に囲まれた何でもない古墳に見えるが、なんとここで昭和53年3月「修羅」と呼ばれる古代埋蔵物が発見され、当時、新聞・テレビで「大発見」と騒がれた。「修羅」とは、巨石などを運ぶ木製の運搬道具で巨大古墳の造成には欠かせない。
奈良明日香や大阪飛鳥の古墳は、丘陵地や田園地帯に佇んでいるが、百舌鳥・古市の古墳は、間近まで民家が迫っている。多分、巨大古墳は平地に造成されたため、その後の宅地開発で住宅が古墳の直近まで迫ってきたのだろう。百舌鳥・古市の古墳群は、上空からしか全容は望めない。すぐ近くに遊覧飛行の基地である八尾空港があるので、世界遺産に登録されれば上空からの鑑賞ツアーなども企画されるのだろう。
「三塚古墳」を過ぎると旧国道170号線と交わるので右に見える信号を渡る。すぐに左側に「道明寺」の山門が見えてくる。聖徳太子が創建した尼寺である土師寺が元で、その後、土師氏の末裔である菅原道真の死後、「道明寺天満宮」の神宮寺となり、明治時代の神仏分離で現在に至るといわれている。
境内左手の本堂には、菅原道真作と伝わる「十一面観音立像」が安置されている。
道明寺のすぐ東隣にあるこんもりとした森が「道明寺天満宮」。神仏分離で「道明寺」と分かれ現在に至る。
手水舎の横には現役の井戸があった。
天満宮の名のとおり菅原道真をお祀りする。
天満宮を出て一旦、道明寺方向に戻る。「道明寺」と「道明寺天満宮」の間で先ほど歩いてきた東高野街道と合流する。
300メートルほどで近鉄南大阪線の踏切と府道を一気に渡る。少し進むと案内板が立つ。近鉄南大阪線を何度も横切るのは、南大阪線が古墳群を避けるように逆S字を描いて大きくカーブしている中を東高野街道が突っ切っているためだ。丁度「$」の文字を逆さまから見たような形である。
すぐ左側に地蔵堂がある。コースも終盤に近づいてきた。
地蔵堂を過ぎると自動販売機があったので最後の給水。自動販売機前の「国府八幡神社」にお参りする。後ろに見える山が、今回最後に訪れる「允恭天皇陵」だ。
国府八幡神社手前の狭い道を入ると「允恭陵」の陪塚があり「允恭天皇恵我長野北陵」と書かれた石柱が立つ。
左に大きな「允恭陵」を眺めながら進み、拝所に向かうため保育所の角を左に曲がろう。とした。ところが前方に鳥居が見える。鳥居が見えるとくぐりたくなるのが私の「癖」である。そこは「志貴縣主神社」という神社だった。奈良時代、一帯が「志貴(磯城)」縣と呼ばれる朝廷の直轄地であり、ここの氏神として建立されたらしい。河内国府も置かれていたようだ。
元の保育所角まで戻り拝所へと向かう。「允恭陵」の拝所は、周囲を住宅地に囲まれているため、一旦御陵の西端まで進み旧国道170号線を曲がった所に立つ「允恭天皇恵我長野北陵」の石柱まで遠回りすることになる。
住宅地の袋小路のようになったところに拝所がある。
第19代允恭天皇。一番最初に訪れた「雄略天皇」の父にあたる。御陵は周囲を堀に囲まれた全長227メートルの立派な前方後円墳だ。これで7つの天皇陵を回ったことになる。
今日の終点地である近鉄「土師ノ里駅」に向かう。旧国道を挟んで駅前にも小さな古墳があった。「鍋塚古墳」という50メートル四方の方墳で「仲津媛陵」の陪塚とも考えられる。今日最後、24基目の古墳だ。
近鉄「土師ノ里駅」。駅のトイレで汗を拭き、着替えを済ませ帰路に。大阪阿部野橋駅まで約20分で着く。今日の「歩紀」約5時間。